精神的自傷がテロリズムを起こす。安楽死推進派の反省

旧題:死ぬ権利と生きる権利と、優生思想

※この記事は何度か加筆修正を加えたものです。

anond.hatelabo.jp

nyaaat.hatenablog.com

 

匿名ダイアリーやニャートさんの記事を読んでいて思ったが、この事件に関わる議論には幾つかの位相がある。

大筋で言えば他人を安楽死させる議論自分が安楽死する議論がごちゃ混ぜになっている。次に障がい者・高齢者にとっての安楽死そうでもない人間にとっての安楽死もごちゃ混ぜになっている。

 

それから、優生思想についてもその適用段階においてブレがあるように感じた。

劣った人間はそのからして排除すべきという社会至上主義ナチスのイメージ)の優生思想と、生産性の低い人間は社会の恩恵から排除されるべきという資本主義の優生思想の二つに概ねブレている。

 

自分の場合、生産性が低くなったら障がい持ちでなくても社会から排除されるだろうから、そうなったら死ぬという選択肢も欲しいと思っている。

これは自分の留年経験から来ている。自分は大学にこれ以上通う必要はないと思っている。でも、退学すると大卒採用という社会からは外れる。だから留年という延命措置を続けている。大学を卒業できない無能を社会から排除するのは資本主義の理念に適っている。けれどこれは「社会に必要とされる能力における優生思想」である。7留で大学中退するかもしれんと言っても話を聞いてくれる会社はそこそこある(ある側面では優秀な人間なので)。

であるなら特定の社会から排除されてしまう人間がいる以上、むしろ積極的に排除される自由もあるべきだと思うし、弱者の意見が通りにくい政治の場で、弱者保護の政策が出来ることを期待するよりも積極的に排除される自由を認めて、弱者の命を交渉材料として政治のテーブルに乗せた方が、弱者の政治的交渉力と主体として生きる力は増すのではないかと考えている。

 

 

若者は想像以上に困窮している。

p-shirokuma.hatenadiary.com

「若者の給料は安い。」+「報酬は能力を反映する」+「低い能力の人間は尊重されない」→→→ ≒「若者は要らない」

 

シロクマさんは優秀な育児者しか求められていないハードルの高さを指摘していたが、素直に社会の通念を受け取ると、無能な育児者がお呼びでないのではなくて、上記の計算式ではむしろ「若者自体、赤ん坊自体が要らない」と言われているように感じる。

 

だから自分は既に社会は未来の世代を殺していると感じている。なので安楽死で人が死ぬと言われても既に未来の世代が死んでいるとしか思えない。

 

安楽死で弱者が減ると力を増すのは(需要と供給のバランスから言えば、弱者の供給が減るので)弱者で、弱者が減ると困るのは相対的に地位を落とす強者だ。

安楽死を合法化して自殺を殺人だと違法化すれば、現在よりも行政が自死に対して交渉する余地ができる。命の価値は軽くならないはずだ。

 

国の財源から養える国民の数には現状上限ができている。極論の仮定として、子供を一人産むごとに一億円貰える社会では子供の数が増えるだろう。少子化している国では、子どもは養うに値しないだけなのだ。優生思想は制度化せずとも既に実効力を持っている安楽死を合法化しないと、弱者の代わりに別の弱者が死ぬだけだ。弱者の一人たる若者として、自分が死ぬ時には穏便に死にたいというだけなのだ。

無駄に生きて弱者の供給を増やし、奴隷として仲間まで安く買いたたかせる人生も、列車の車輪に身を切り刻まれて終わる人生もまっぴらごめんというだけなのだ。

 

補論

この記事の結論は、「弱者に決定権が欲しい」だ。しかし僕は現在死のうとは思っていない。だから今苦しんでいる人に接する人から見れば僕の主張は暴力的に感じられるだろう。そして僕が弱者を苦しめる強者に見えるだろう。

だが年収と産まれてくる子供の数の関係に見られる通り、経済的弱者は子どもを増やせず票田を増やせない。従って経済的弱者は政治的弱者に繋がる。一方で安く買いたたけてしかも国籍がない労働者が輸入されてくる。「立場の弱い人間を増やすこと」は強者に有利な需給関係を固定することだ。

 

 

しかし弱者を弱さから解放する技術もある。

例えば遠隔操作ロボットを使えば、寝たきりの人でもロボットの身体を使って仕事ができる。

orihime.orylab.com

 

もう少し希望のある未来はくるのかもしれない

 

 

反省

何日かこの議題について考えてみた。その結果最初の結論よりも期待のある結論に書き変わった。

自分は精神的な自傷癖がある。ただ、今回の安楽死という話題に関してはもう少し慎重に考えるべきだった。自分が勝手に絶望するのは勝手だが、ある制度が適用されるのは自分よりも圧倒的に”他人において”適用されるのだ。

 

議論においては他人の視点を優先して議論すべきだと学んだ。