それでも他者と話すことを求められる

シロクマさんの記事を読んだ。

 

なにせ子どもには媒介物を介したコミュニケーションが通じない。流行りの映画についてとか、雨模様についてとか、そういった「○○にまつわる話」や「××についての話」が乳幼児にはまったく通じない。プライバシーの欠如した一体状態から親子関係がスタートするので、子育ては、私たちを現代社会から最も遠いところへと遠ざける。現代社会のコミュニケーションの流儀に特化している人は、子どもとコミュニケーションができない。だがそれでは子どもも困るし親も困ってしまう。なにせ、言語という最も根源的な媒介物すら子どもには通用しないのだ。

他人と話さないで済ませられる現代社会 - シロクマの屑籠

 

上の記事では大人にとって幼児は、

「媒介物を介したコミュニケーション」、簡単に言えば「世間話」的会話が出来ない相手である

 

ことが触れられていたが、幼児の先にある学生という段階で未だにつまずいている自分が書いておきたいのは、自分のように「大きくなった幼児」についてである。

 

主に自分語りなので注意されたし。

 

 

「媒介物」がなくて会話ができない

 

自分は世間話が出来ない。自分の家の周りや職場の周りや芸能界周りがどうなってようがまるで興味がないからだ。ほとんどの地名と名前にピンとこない。

父親のように、興味が無くとも話題作りの為に野球観戦するのが大人なのだろう。けれども厄介なのは、高校生から一人暮らしを始めて外様として生きてきた父親に対して、自分が世界の外にいて内側に入れてくれるよう頼むべき存在だと自覚する時期が僕の場合遅すぎた点である。

 

高校まではそれで良かった。地元育ちであり、周りには地元出身者が過半数を占めていた。言わずとも僕はマジョリティーであった。

しかし大学になると事情が変わった。地元の大学に行った自分はマジョリティー意識のまま、言わずとも分かる世界を生きていた。けれども実際はそんな世界では無かった。僕の感覚は中心部からズレ始めていた。言わなきゃ分からない特殊事情を持つ人間になっており、大人になる必要があったのだ。

 

幼児的感性を持つ僕は世間に顔を向けることで不満を表明しようとした。その方法はこの社会において間違っている。けれども僕はそれが間違っていることを学べる要素を持っていなかったし、親は気付いて教えられる要素を持っていなかったし、社会はそれを教えられる仕組みを持っていなかった。演算を正しく遂行した結果、引きこもり経験者が出来た。死んだり反社会的行動を取らなかったのは、恵まれた計算式だったと言える。

 

 

「媒介物」を得るには

 

「媒介物」を持たない個人が強硬な会話を試みる有名な例はクレーマーだろう。応用的な例は無理くりの社会運動家、宗教家など。

 

強硬な会話を試みても、外のままだ。馬鹿にされて貧困のせいにされて終わり。

 

「媒介物」は自分の内側には無い、なら彼らの内側にもあるものを→ナショナリストやブランド狂い

 

彼らの望むことを代わりに→ナチズム的排外行為

 

「媒介物」をむりやり得ようとすることには問題がある。けれども得ざるをえない。得なければ外のままだ。世間話の一つも出来ない奴は社会人では無いし、授業も出ずにネットや図書館で物事を考える奴は学生じゃない。どちらも排除される対象だ。

かと言って、「媒介物」は自分の内側には存在していないのだ。自分らしさを切除して他人らしさを貼り付けるしかない。

 

多くの大人はこれが出来るのか、幸運にもマジョリティーに生まれてきたのだろう。迷惑な大人に成りたくなければ関係性を築くために、話が出来る人間となる必要がある。

 

 

コストパフォーマンス

 

けれども切り離せない自分らしさもある。イスラム教徒に飲みニケーションを強要する暴力性は想像できるだろう。

じゃあモンテッソーリ育ちの人間に大学の授業にしっかり出る事を強要する事 の暴力性は想像できるだろうか?

ほとんどの人は想像できないんじゃないかな。

 

嫌ならやめろ、嫌なら学校行かずに就職すれば?と言う言葉は、

イスラム教徒に飲みニケーションが出来ないならこの業界から撤退したら?

と言う言葉に等しいプレッシャーがある。

 

イスラム教徒ほどのマジョリティーじゃないし、飲み込まざるをえないプレッシャーだ。改革運動したって大学制度は自分の代じゃ変えられない、それほど皆にとって重要な問題だ。僕の都合だけでは動かない。

それにモンテッソーリ育ちの多くが何にせよ社会に適応する。例外中の例外ほどの少数に対処する事はほとんどの場合ワリに合わない。

 

それは個人と個人との関係性においても同じことが言える。SNSの趨勢によって我々が対処しなければならない交友関係の量が増加した。人と話しながらラインをする例もある。個々人の違い、特別な事情なんて考慮できる余裕は現代人にはないのだ。「媒介物を介したコミュニケーション」が求められている。

 

 

話さなきゃならない

 

"現代社会を生きる私たちは、ロクに他人と話していないのではないか"、という一文が元の記事にあった。

けれどもその端にいる例外的な僕たちは話すことを求められる。子供ながらにして自分の異常さを言語化して、正常に話すことを求められる。その結果大人になるのが遅れる。友達を作る機会も恋人を作る機会も遅れる。

楽しみを得る機会が先延ばしにされて、言葉を探す苦労だけに耐えれる人はどれだけいるだろう。

 

この苦しみは言葉とともにある。科学や世界が発展して、扱うべき言葉が増えた。それとともに語られない事が許されなくなっていった。神は死に、病名の無い病気は無くなり、不確定要素を予見できないことは全て失態となった。

 

だからこの苦しみはエリートから始まった。言葉に埋もれる彼らが、語られぬを語ろうとして苦しみ、あるいは戦いあるいは逃げた。

けれど今や僕たち平民も言葉とは戦わなくちゃならなくなった。地元言葉に共通語、英語くらいは話すことを求められる。表現できる事が増えると同時にテキトーな表現は許されなくなった。

 

成績が数値化されるとともにテキトーな評価はできなくなった。僕のような例外的存在は、言葉を話せなきゃ評価されなくなった。

 

でも子供が雄弁に自分の状況を正確に語ってみせるなんて無理だ。誰かの言葉を借りなきゃいけない。僕は大学に行けば自分のやりたいように勉強ができると過大な期待を寄せていた。けれど期待は裏切られ、その過程全体をきちんと言葉にするのには大学で6年学ぶ必要があった。

 

幼児が大人になるには言葉が必要だ。けれども子供任せじゃ時間がかかって「大きくなった幼児」が出来る。届くべき言葉が届くべき子供に届く必要がある。

 

 

出来ること

 

完璧な解決策はない。

けれど自分の考えたことを少しでも書き残すことは、同じような子供や自分の為の言葉として武器になるかもしれない。

 

言いたいことが言える世の中になるためには、大人の言葉に豊かさがなければならない。これから大人に成る者として目標にしたい。