授業嫌いの理由: 視覚優位と聴覚優位

授業が嫌いなのよ

好き=演習、調べもの、ゲーム、映像分析

嫌い=授業・・・効率が悪い

 

得意科目=数学

苦手科目=国語

 

この特徴を持つ文系大学生が生きにくい理由が分かった。

苦手なことをやっているからである。

 

 

自分は頭がいいから何でも出来ると己惚れていたが、そんなことはない。

泳ぎの得意な犬をイルカの群れに混ぜて教育しても、いずれ溺れ死ぬ。

 自分の向いている事をやった方がよい

 

 

 視覚優位と聴覚優位

h-navi.jp

以上のことに思い当たったのは上記の記事を読んだからである。

 

自分は視覚優位の人間で、見るべき情報が全て書き出されている状態に安心感を覚える。本やテスト、戦略ゲームのように視覚だけを使っている状態は非常にやりやすい。

 

一方で自分は人の話していることを聞き取り辛いと感じることがしばしばあるし、ひきこもり気質も多分に関係するだろうが、話すのが苦手だ。

 

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日能研の「8つの知能のアセスメント」による筆者の知能バランス

http://www.nichinoken.co.jp/np5/nnk/multiple_intelligences/mi/inventory.html#top

studyhacker.net

 

授業中もひたすら先生の言っていることを些細な話でもメモ書きして

聴覚→視覚

に変換するステップを毎回踏んでいるし、

現時点の自分は授業(先生の話を聞くこと)に向いていないのだと思う。

 

 

視覚優位と聴覚優位、と言語優位

考えを整理するために教育論から考えてみる。

やってみせ、言って聞かせて、

させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。

山本五十六の名言 | 地球の名言

 

「行動→言葉→行動→言葉(→行動)」になっている。

 

異なる認知特性を持つ子供向けの教え方をしても、あまり効果的ではない。

図に書いて勉強する子供もいれば

口に出して勉強する子供もいれば

文字を読んで勉強する子供もいる

 

教師の立場として何回教えても伝わらない時って、自分の認知特性の中だけで創意工夫しているからじゃないだろうか。

 

教育を考えるときの軸として、こういう個人差も面白いと思った。

アスリートに速筋繊維と遅筋繊維で向き不向きが生じるなら、学生にも勉強方法の向き不向きは出るのではなかろうか。 

 

 

結論

・教える側は行動と言葉を織り交ぜて教えると伝わりやすいかもしれない。

・学ぶ側は自分の学びやすい環境に身を置くべき。/演習重視か講義重視かって結構大事。

 

「ワザップジョルノ」あなたはレビューすr、イイですねッ!

五七五のように心に響く文字数があるとすれば、50音の使い方も名句は優れているのではないか。子音と母音に色付けして考察を書くシリーズ。

dic.nicovideo.jp

考察

  • aaaoaaaaという歯切れのよい冒頭。
  • A部は、eauoeueieuの三連構成になっている。
  • auoとカ行の連字で始まったB部はaiで韻を踏んでいる。
  • A部B部ともに2行目は韻が甘めになっている。C部においても同じ。
  • 文章全体を通してaiuが行の中盤に来ることが多い。
  • 文章全体を通してnoがよく使われる重めの文章である。
  • 文章全体を通してaiaiがよく使われ、高まったi欲はC部において行頭字に使用されるようになり、最後の1行でiieue!と存分に使われる。
  • また、最後の2行においては文章を通して頻繁に使われてきたnoが使われず、最後の1行ではaiuも使われない。
  • このことにより最後の1行は開放感あふれる言い回しとなている→いいですね!

 

色付け

子音::で色付け

母音:aiueo:で色付け

 

 A

aaao aiaio iuuonaiaie 

  うuuaeau

iuua oion oaaieue

aaaa inao onauaaaeaai、 

  せeeueeao aaiiaaaeu

 

B

auoo unio ieoieuaai

iaiuii uuaeau

aiano ooiau

aianoio もonouuoue ieoaiau

 

C

iaouo unio ieoieuaai

aaaa はanaiaeu

eiuoi uioaeu 

  たaoiiiieoieuaai

iieue

 

 

 

 

「イワシがつちからはえてくるんだ」丹念な響き

 

五七五のように心に響く文字数があるとすれば、50音の使い方も名曲は優れているのではないか。子音と母音に色付けして考察を書くシリーズ。

考察

  •  a音が基本になっている歌。
  • o音が1行の冒頭の字の母音として使われるのは特定のパートの後半になってから「oie」などと使われる。→ a音中心のこの歌においての休憩地点となっている。→Bパートは”a音”に加えて”o音”でも韻を踏んでいるから安らぎがある。

  • i音は歌詞の前半では主にiの韻踏み使われているだけだが、後半になると2行目のiiiioの4連打に始まり1行の冒頭の文字において存在感を増してくる。つまりiai成分が強くなり味わいが変わる。
  • は五十音の中で特殊な文字であるが、この歌の冒頭ではanenと繰り返して使われている。最も特殊なフレーズが冒頭に置かれている為、AS→B→ASSと続くこの歌では冒頭に戻りたくなる。だから中毒性がある。

 

色付け

子音::で色付け

母音:aiueo:で色付け

 

A1

anen aeao こooeia

aeaa aaie

a  iu  aino oniia

oi  e

aiao ioua uaaaa

 

S1

aiao o  oa iieiu

iaia  uiaa aeeuuna

e  io  ooui aaaau

uooa ieuna

 

iouo ioua ieaeo

ieaa eooo ouaaaaina

o  ao ueaa iuaau

ea       ieau aaeia

 

 B1

aa a aeu

oi a oau euu

ae a oai ueau

ui a  iio aeo eu aau

 

La...Ra...La...Ra...

 

A2

iaaeo oeaaa uaaae

iiiio  oaie  auee

uuu

ooa

ooia ooaauaaa

 

S2

aiao o oa iiiu

iaia uiaa aeeuuna

eio   ooui aaaau

uooa ieuna

 

iouo ioua ieaeo

ieaa eooo ouaaaaina

o ao ueaa iuaau

ea   ieau aaeia

 

S3

aiao o oa iiiu

iaia uiaa aeeuuna

eio   ooui aaaau

uooa ieuna

 

iouo ioua ieaeo

ieaa eooo ouaaaaina

o ao ueaa iuaau

ea   ieau aaeia

 

 

 

 

心に負債を抱えたら

負債を抱えている状態が初期状態になると、プラスを稼いでも焼け石に水で努力する意欲が片端からブラックホールに吸い込まれていく。

 

初期化が必要。

 

マイナスにマイナスを掛け合わせると、負債をプラスに転じる離れ業が出来る。

 

が、その方法は往々にして他人に迷惑をかける。

自分で処理できないマイナスなのだから他人のところに持ち込んで処理してもらうしかないのだが、プラスを積むことを諦めざるを得ないほどのマイナスに根気よくマイナスを掛け続けてくれる人なんてそうそう居ないものだ。

 

だから当事者会がいいよって話。

 

抱える問題を当然のものだと見つめることで、そこを基点である0に出来る。

いろいろと気負っていたものを剥がしてくれる。それに相手は相手自身と似ている人間をただ見てればいいだけだから負担もかからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〈以下参考書〉

 

Re:ゼロから始める異世界生活

https://ncode.syosetu.com/n2267be/

自分が初めて読んだひきこもり文学。

この記事の発想基。

 

weaktie.org

自分の行ったとこ。

喜怒哀楽の楽。

 

soar-world.com

自分の言葉をしゃべれるところは楽。

 

 

それでも他者と話すことを求められる

シロクマさんの記事を読んだ。

 

なにせ子どもには媒介物を介したコミュニケーションが通じない。流行りの映画についてとか、雨模様についてとか、そういった「○○にまつわる話」や「××についての話」が乳幼児にはまったく通じない。プライバシーの欠如した一体状態から親子関係がスタートするので、子育ては、私たちを現代社会から最も遠いところへと遠ざける。現代社会のコミュニケーションの流儀に特化している人は、子どもとコミュニケーションができない。だがそれでは子どもも困るし親も困ってしまう。なにせ、言語という最も根源的な媒介物すら子どもには通用しないのだ。

他人と話さないで済ませられる現代社会 - シロクマの屑籠

 

上の記事では大人にとって幼児は、

「媒介物を介したコミュニケーション」、簡単に言えば「世間話」的会話が出来ない相手である

 

ことが触れられていたが、幼児の先にある学生という段階で未だにつまずいている自分が書いておきたいのは、自分のように「大きくなった幼児」についてである。

 

主に自分語りなので注意されたし。

 

 

「媒介物」がなくて会話ができない

 

自分は世間話が出来ない。自分の家の周りや職場の周りや芸能界周りがどうなってようがまるで興味がないからだ。ほとんどの地名と名前にピンとこない。

父親のように、興味が無くとも話題作りの為に野球観戦するのが大人なのだろう。けれども厄介なのは、高校生から一人暮らしを始めて外様として生きてきた父親に対して、自分が世界の外にいて内側に入れてくれるよう頼むべき存在だと自覚する時期が僕の場合遅すぎた点である。

 

高校まではそれで良かった。地元育ちであり、周りには地元出身者が過半数を占めていた。言わずとも僕はマジョリティーであった。

しかし大学になると事情が変わった。地元の大学に行った自分はマジョリティー意識のまま、言わずとも分かる世界を生きていた。けれども実際はそんな世界では無かった。僕の感覚は中心部からズレ始めていた。言わなきゃ分からない特殊事情を持つ人間になっており、大人になる必要があったのだ。

 

幼児的感性を持つ僕は世間に顔を向けることで不満を表明しようとした。その方法はこの社会において間違っている。けれども僕はそれが間違っていることを学べる要素を持っていなかったし、親は気付いて教えられる要素を持っていなかったし、社会はそれを教えられる仕組みを持っていなかった。演算を正しく遂行した結果、引きこもり経験者が出来た。死んだり反社会的行動を取らなかったのは、恵まれた計算式だったと言える。

 

 

「媒介物」を得るには

 

「媒介物」を持たない個人が強硬な会話を試みる有名な例はクレーマーだろう。応用的な例は無理くりの社会運動家、宗教家など。

 

強硬な会話を試みても、外のままだ。馬鹿にされて貧困のせいにされて終わり。

 

「媒介物」は自分の内側には無い、なら彼らの内側にもあるものを→ナショナリストやブランド狂い

 

彼らの望むことを代わりに→ナチズム的排外行為

 

「媒介物」をむりやり得ようとすることには問題がある。けれども得ざるをえない。得なければ外のままだ。世間話の一つも出来ない奴は社会人では無いし、授業も出ずにネットや図書館で物事を考える奴は学生じゃない。どちらも排除される対象だ。

かと言って、「媒介物」は自分の内側には存在していないのだ。自分らしさを切除して他人らしさを貼り付けるしかない。

 

多くの大人はこれが出来るのか、幸運にもマジョリティーに生まれてきたのだろう。迷惑な大人に成りたくなければ関係性を築くために、話が出来る人間となる必要がある。

 

 

コストパフォーマンス

 

けれども切り離せない自分らしさもある。イスラム教徒に飲みニケーションを強要する暴力性は想像できるだろう。

じゃあモンテッソーリ育ちの人間に大学の授業にしっかり出る事を強要する事 の暴力性は想像できるだろうか?

ほとんどの人は想像できないんじゃないかな。

 

嫌ならやめろ、嫌なら学校行かずに就職すれば?と言う言葉は、

イスラム教徒に飲みニケーションが出来ないならこの業界から撤退したら?

と言う言葉に等しいプレッシャーがある。

 

イスラム教徒ほどのマジョリティーじゃないし、飲み込まざるをえないプレッシャーだ。改革運動したって大学制度は自分の代じゃ変えられない、それほど皆にとって重要な問題だ。僕の都合だけでは動かない。

それにモンテッソーリ育ちの多くが何にせよ社会に適応する。例外中の例外ほどの少数に対処する事はほとんどの場合ワリに合わない。

 

それは個人と個人との関係性においても同じことが言える。SNSの趨勢によって我々が対処しなければならない交友関係の量が増加した。人と話しながらラインをする例もある。個々人の違い、特別な事情なんて考慮できる余裕は現代人にはないのだ。「媒介物を介したコミュニケーション」が求められている。

 

 

話さなきゃならない

 

"現代社会を生きる私たちは、ロクに他人と話していないのではないか"、という一文が元の記事にあった。

けれどもその端にいる例外的な僕たちは話すことを求められる。子供ながらにして自分の異常さを言語化して、正常に話すことを求められる。その結果大人になるのが遅れる。友達を作る機会も恋人を作る機会も遅れる。

楽しみを得る機会が先延ばしにされて、言葉を探す苦労だけに耐えれる人はどれだけいるだろう。

 

この苦しみは言葉とともにある。科学や世界が発展して、扱うべき言葉が増えた。それとともに語られない事が許されなくなっていった。神は死に、病名の無い病気は無くなり、不確定要素を予見できないことは全て失態となった。

 

だからこの苦しみはエリートから始まった。言葉に埋もれる彼らが、語られぬを語ろうとして苦しみ、あるいは戦いあるいは逃げた。

けれど今や僕たち平民も言葉とは戦わなくちゃならなくなった。地元言葉に共通語、英語くらいは話すことを求められる。表現できる事が増えると同時にテキトーな表現は許されなくなった。

 

成績が数値化されるとともにテキトーな評価はできなくなった。僕のような例外的存在は、言葉を話せなきゃ評価されなくなった。

 

でも子供が雄弁に自分の状況を正確に語ってみせるなんて無理だ。誰かの言葉を借りなきゃいけない。僕は大学に行けば自分のやりたいように勉強ができると過大な期待を寄せていた。けれど期待は裏切られ、その過程全体をきちんと言葉にするのには大学で6年学ぶ必要があった。

 

幼児が大人になるには言葉が必要だ。けれども子供任せじゃ時間がかかって「大きくなった幼児」が出来る。届くべき言葉が届くべき子供に届く必要がある。

 

 

出来ること

 

完璧な解決策はない。

けれど自分の考えたことを少しでも書き残すことは、同じような子供や自分の為の言葉として武器になるかもしれない。

 

言いたいことが言える世の中になるためには、大人の言葉に豊かさがなければならない。これから大人に成る者として目標にしたい。

 

 

 

物語と文体についての大まかな話(小説家の仕事は劇場運営である)①概観編

 知り合いと小説について話す機会があったので、一度自分の現時点での小説についての考え方を書き出してみる。

 

小説を例えると

面白い小説を書こうとした時につまづくポイントが2つある。

・アイデアを膨らませる。

・それを伝わる形に仕立てる。

 

上が語るべき「物語」で、下はそれを伝える媒体。

映画にしても良いし、ゲームにしても良いし、絵で伝えてもいい。

でも今回は小説の話だから、媒体は「小説」である。

 

「小説」の中には幾つかの機能がある。

「小説」は本文に書かれた文字だけが価値として存在するのではない。

 

なぜなら人は表紙に惹かれて本を買うこともあるし、

図鑑やダイエット本を買って、読みもしないのに満足することもある。

 

面白い小説を書きたいならば

「小説」の形を借りるにあたって、その全体像を把握したい。

今回の連載ではそれを劇場に例えることで解説してみる。

 

劇場に例える

小説を劇場に例えると、

 

まず”人”は劇場にたどり着く必要がある。(1.立地)

たどり着くと劇場の看板や外装を目にする。(2.表紙、あらすじ)

ひきこまれるものを感じた”人”は少し入ってみて劇場の雰囲気や上映演目を確かめる。(3.冒頭、目次)

その中から一つ選んで、もしくは上映される順番に”人”は観劇する。(4.本文)

劇場から出た”人”はパンフレットを読んだりSNSを使ったりして発散する。気の早い”人”は観劇の前にこれをやる。(5.後書き、口コミ)

 

こんな感じだろう。

 

 

各論

それでは、バラバラに分解した構成要素から小説を再び組み上げてみる。

 

(1.立地)

小説といかに出会うかは大切だ。対象となる読者層に読まれる必要がある。ファンタジーはファンタジー好きに、推理物は推理小説好きに読まれる必要がある。けれど問題は、ファンタジー好きの読者は、ファンタジーを多く読みファンタジーに対する目の肥えた好敵手という事だ。正面からぶつかっていって感動させるのは余程の力量がないと難しい。

 

だからズラす必要がある。ファンタジー→権力闘争やファンタジー→仕立屋など。

 

もしくは別の入り口から入って自分の得意分野に持ち込むのも有効である。この場合人気のあるジャンルから引っ張ってきて、自分の得意なジャンルを展開するというお得コンボも可能である。安易な学園もの美少女ものから人間性の内側にえぐり込む名作エロゲのような展開や、とりあえずの殺人事件暴力事件への巻き込まれから始まるストーリー展開の黄金パターンなど。

 

(2.表紙、あらすじ)

表紙について凝ることはネットに小説を投稿している段階の人間にとっては縁遠い話になるが、ミヒャエル・エンデはてしない物語のように表紙が世界観を一層深めることがあることは周知の事実だろう。

 

あらすじはその作品における最も紙幅の少ない章である。であるから、ここだけで面白く読ませることが出来ないならば、それよりも長い本編は読んでくれる人だけが読むことになる。その為に、作品のコンセプトは絞るべきなのだ。題名だけで面白さが伝わる程までなら最高だ。

 

(3.冒頭、目次)

冒頭や目次はアニメで言えばオープニングムービーである。その作品の魅力や謎、登場人物を見せて観客を惹き込む。推理小説ならちょっとした謎を推理して見せたり、その巻のテーマとなる謎をにおわせてみたり。

 

(4.本文)

他の部分も価値を生み出すとはいえ、やはり小説の主体は本文である。であれば、より詳細に考える為、本文の役割をもう一度劇場と照らし合わせながら考えてみる。進行すべき「物語」はどのように語られるか。それはオムニバス形式かポアロ形式*1か順番に語っていくかなど物語進行も含めた、より大きな意味での「文体」に則って語られるわけだ。

 

「文体」とは狭義では文章の書き方を示す言葉だけれども、そこで表現できるものは存外多い。文章によって表現されるものは大きく分けて”何が、どんなものがあるか”という「モチーフへの説明」と、”それらがどの様に関係性を持っているか”という「関係性への説明」がある。

 

劇場に例えるならば、前者は劇場主のあなたが雇用している「役者」で、後者は劇場にあなたが仕組んだ「つくり(劇場設計)」だ。両方高品質なものであればあるほど評価が上がるかといえば、そうでもない。子供の学芸会での演技が何より心を揺さぶるという事もある。相応しい姿であることが重要なのだ。表現過多になっても叙述トリックに凝りすぎても伝わらないのだ。適切に「物語」の持つ魅力を描き切れる実力が「文体」には求められる。

 

「物語」は使い回しが効かないが、「文体」は使い回しが効く。であるから小説家は「文体」を武器にすべきである。(この辺りは物語と劇場の例えよりも、”歌”と歌手の”歌い方”に例えた方が分かり易いだろうか。別の歌手の”歌”を自分の”歌い方”でカバーしても聴いてもらえるが、別の歌手の”歌い方”で自分の”歌”を歌うことにはあまり需要がないのだ。自分で作りだすべきはむしろ自分なりの”歌い方”「文体」の方なのである。そちらの方が多くを期待できる。)

 

(5.後書き、口コミ)

 後書きや口コミは読書体験に対して与える役割はあまりないが、読書のきっかけとしては有用だ。職業小説家にとっては大事なことだろう。

 

まとめ

”人は誰でも一生に一冊は本を書ける”と言う。ではなぜ”人は誰でも小説家になれる”ではないのか。それは「物語をつくる力」と「物語を魅力的にみせる力」が別物だからである。であれば小説家の本分は「物語を魅力的に見せる力」、つまり「文体」にある。

 

 

具体的な「文体」の分類についても、考えを深めて「②文体編」を書きたい。

 

 

 

*1:先に見せて解説する形式